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「っぽいこと」をやめた瞬間、思考は始まる

「っぽいこと」をやめた瞬間、思考は始まる

2026.01.26

田中大介という名前で語られる思考は、実のところ一人分ではない。
それは 田中友規と伊丹谷大介、二人の対話がぶつかり合うことで生まれる、
ひとつの思考の運動体だ。

その対話は、だいたい不機嫌な否定から始まる。
「それ、っぽすぎへん?」
「それAIが一番得意なやつやん」

今の時代、それっぽいものをつくるのは簡単だ。
Pinterestを見れば正解は並び、
AIに聞けば、もっともらしい言葉や構図が一瞬で返ってくる。

だからこそ、彼らはそこを疑う。


AIが悪いわけではない。
むしろ優秀だ。
問題は使う側だ。

バカが使ったら、そのAIもバカになる。

これは暴言ではない。
構造の話だ。

問いを立てられない人間がAIを使えば、
AIは問いを立てないアウトプットを量産する。
思考を放棄した人間がAIを使えば、
AIは思考停止を高速化する。

それだけのことだ。


「っぽい」という言葉は、この構造と相性が良すぎる。
それっぽい色、それっぽい言葉、それっぽい世界観。
誰かが決めた平均値をなぞることで、
自分で考えなくて済むし、責任も引き受けなくていい。

AIは、この「考えなくていい状態」を、
とてつもない速度で実現してしまった。

結果、世界は“正解っぽいもの”で溢れている。


田中大介がよく持ち出すのが、葬儀の話だ。
葬儀には葬儀っぽい型がある。
静かで、厳かで、誰もが想像できる形式。
AIに聞けば、その正解はいくらでも出てくるだろう。

だが、もしその人が生前、
情熱的で、やかましくて、周囲を巻き込み続ける人だったらどうだ。

その人生を、
“葬儀っぽい葬儀”で締めくくることは、本当に誠実なのか。

そこから出てきたのが、
「パッション方式の葬儀」という発想だった。

奇をてらったアイデアではない。
型を疑い、前提を壊した先にしか出てこない、ごく自然な結論だ。


オリジナリティは生成されない。
拒絶される。

それを使わない。
それをやらない。
それに従わない。

この否定のプロセスを通らない限り、
どれだけ最新のAIを使っても、
出てくるものは既視感を超えない。

田中友規と伊丹谷大介の対話が、
不格好で、非効率で、ときに不快なのは、
この否定を省略しないからだ。


「っぽいこと」をやめると、不安になる。
正解がない。
保証がない。
AIもPinterestも助けてくれない。

だがその瞬間、
思考はようやく身体に戻ってくる。

気持ち悪さ。
違和感。
言葉になる前の引っかかり。

AIが最も苦手とする領域だ。


これはAI批判ではない。
ツール否定でもない。

思考を放棄したまま、
思考した気になっている人間への批評
だ。

テキストでここまで揺さぶられたなら、
次は対話そのものを見てほしい。

洗練されていない。
スマートでもない。
だが、「っぽいこと」を拒絶し続ける
生の思考プロセスがそこにはある。


▶ 関連動画

田中大介の放送室-34-「っぽいことをすな!」